「英語話者の場面認識」
空間の中で、人は自分の前に場面を見て、その中から自らの感受性に訴える要素を切り取り、そして、自らが生まれ育った文化背景の影響を無意識に受けて、その切り取った要素に語句を当て、言葉を生成します。発話は空間の中で「場面」を見ることから始まります。
日本語話者は英語話者の様に英語が話せない、英語話者が日本語話者の様に日本語が話せない、これは英語と日本語において、話者の空間内での場面の見方が違っていることにあります。
この違いが分からないと、日本語話者は英語話者の様に英語が話せず、英語話者は日本語話者の様に日本語が話せないということになります。
第一章で、狩猟民族であった人たちは狩りに出て動物と遭遇したとき、即座に空間の中で自分の位置を認識すると述べました。
この認識の仕方は、空間の中に居る自分が自分の周囲を見て、自らの位置を認識するのとは違っています。
自分の分身をその空間の外側に置いて、その分身を通して空間の中に居る自分を見て、自らの位置を認識するのです。
これは、映画館で分身が観客席に座り、その分身が3Dの映像を観客席から見て、3Dの映像内に居る自分の位置を認識しているのに似ています。
狩猟民族の言語を起源とする英語を話す人たちは、空間の中に居る自分の位置を把握する時、空間の中に自分を置いたまま、その空間の外側にもう一人の自分を置きます。そして、もう一人の自分の目で空間の中に居る自分自身を見るという構図を作り上げます。
もう一人の自分を空間の外に置くのは、空間内での自らの位置を把握する場合に限らず、空間内に居る自分が目にしているモノ(者、及び物)を述べるときも同じです。空間内に居る自分は、空間の外に置いたもう一人の自分の目を通して、場面内にいる自分が目にしているものを述べることになります。
英語話者は、この様に、もう一人の自分を空間の外に置いて、そのもう一人の自分の目を通して、空間内の要素であるモノを認識して、そのモノ、または、それらのモノに語句を当てて言葉を生成します。
「日本語話者の場面認識」
それでは、農耕民族である日本語の話者は、どのように場面を見ているのでしょうか。農耕民族としての文化背景を持つ日本語話者は、協働と協調の精神を重んじる共同体の中に居ます。同質の人たちで成り立った比較的安全な空間の中に居ます。
よって、狩猟民族の様に危機感を持って相手と対峙することがそれほどありません。ある程度の安全が確保されている空間の中に居るので、空間の外側にもう一人の自分を置いて空間内に居る自分の位置を客観的に捉える必要がないと言えます。
例えば、英語話者は自分がどこに居るのか分からなくなったとき、
「私はどこにいる(Where am I?)」と言います。
これは、自分の視界に収まる空間の外側に、自分の分身を置いて、その分身の目を通しての表現です。
これに対して、日本語話者は自分がどこに居るのか分からなくなったとき、
「ここは、どこ?」と言います。
これは、自分は空間の中に埋没しており、自分の目の前の自分の視界に収まる場面を見て、自分自身の位置を分かろうとしています。
つまり、本来の自分が空間の中に居るだけです。この状況下では、空間の中に居る自分自身が自分の目の前に現れるものを見て、自分の位置を認識することになります。(日本語話者は距離感のあまりない二次元的な画面を見て、英語話者は遠ざかって三次元的な空間を見て言葉を生成すると言えます。)
農耕民族の言語を起源とする日本語の話者は、空間の中に居る自分の目を通して二次元的な場面を見ます。空間の外側にもう一人の自分を置くという英語話者のような構図は取りません。自分自身が場面の中に埋没して、目の前に見える場面の中から場面内の要素であるモノを認識して、それ、または、それらに語句を当てて言葉を生成します。
次は、「第3章:場面内の要素を感じ取る順序」へどうぞ!